沖縄 陶芸体験 漆喰シーサー作りしょっ
南部なちゅら店

三重県 陶芸体験,学習,教室,漆喰シーサー作り,沖縄観光しょっ!

陶芸教室三重県、

全国には数百箇所にも上る教室があります。教室のスタイルもいろいろ
ご自分にあった教室が見つかると思います。

陶芸教室、体験 三重県

教室名 住所 電話番号
アトリエプシケ陶芸体験教室 三重県多気郡多気町丹生2433 0598-49-2645
白山窯陶芸教室 三重県津市白山町三ケ野151 059-262-2847
光和窯陶芸教室 三重県鳥羽市鳥羽4-17-5 0599-26-3429
光和窯陶芸教室 三重県鳥羽市鳥羽4-17-5 0599-26-3429
美潮陶芸教室 三重県鳥羽市鳥羽2丁目3-120599-25-3956
百峰窯 三重県多気郡大台町薗1016 0598-76-1538
ばんこの里会館 三重県四日市市陶栄町4-8 059-330-2020
白山窯陶芸教室 三重県津市白山町三ケ野151 059-262-2847
泥酔庵 三重県四日市市川原町24-8 059-331-6479
すずか陶芸教室 三重県鈴鹿市江島町東花野1688 059-386-2509
鴛鴦窯 三重県津市久居新町1165 059-255-3260
伊賀焼陶芸教室 三重県伊賀市長田3759-2 0595-24-3060
伊賀焼伝統産業会館      三重県伊賀市丸柱169 0595-44-1701
伊賀ドライブイン 三重県伊賀市柘植町5704-1 0595-45-6810
安西窯 三重県津市芸濃町北神山460-2 059-265-4868

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●萬古焼(ばんこやき、万古焼)は、陶磁器・焼き物の一つで、葉長石(ペタライト)を使用して耐熱性に優れた特徴を持つ。陶器と磁器の間の性質を持つ半磁器(炻器)に分類される。
三重県四日市市の代表的な地場産業であり、1979年(昭和54年)1月12日から伝統工芸品に指定されている。その耐熱性の特長を活かした紫泥の急須や土鍋が有名であり、特に土鍋の国内シェアは、7、8割を占めると言われている。また、豚を模った蚊遣器「蚊遣豚」でも有名である。四日市市内の橋北地区と海蔵地区で萬古焼が盛んである。"
歴史
桑名の豪商沼波弄山(ぬなみろうざん)が、元文年間(1781年〜1740年)に朝明郡小向(あさけぐん おぶけ、現在の三重郡朝日町小向)で創始。弄山が、自身の作品に「萬古」または「萬古不易」の印を押したのが、名前の由来である。(弄山の時代の作品は、現代では古萬古と呼ばれる)弄山の没後、一時途絶えるものの、天保年間(1830年〜1843年)に森有節(本名は与五左衛門)らによって再興された(桑名萬古焼)。また、射和村の竹川竹斎は射和萬古を、弄山の弟子の沼波瑞牙が津で安東焼(後の阿漕焼)を興した。四日市萬古焼は山中忠左衛門の尽力によって興り、阿倉川や末広に最初の窯が建った。
明治時代には山中忠左衛門らによって洋皿やコーヒーカップ等の洋食器の研究や地域住民への製作指導、海外輸出も行われるようになった。陶土として使っていた四日市の土は赤土であり、輸出向けの白地の食器を作ることが困難であったため、日本各地から陶土・陶石を移入して対応した[2]。昭和に入る頃には日本国内から萬古焼の陶土に適した土がなくなってしまったが、国産振興四日市大博覧会を通して朝鮮に適した陶土があることが分かり、取引の具体化が始まった。輸出の最盛期であった1980年(昭和55年)には出荷額が202億円に上ったが、1998年(平成10年)には85億円まで落ち込んだ。一方国内向けの出荷額はほぼ横ばいを続けている。
市内陶栄町には萬古神社が築かれ、森や山中の記念碑が建てられている。また5月第2週の土日には萬古祭りが開かれ、様々な陶器が売られている。

●伊賀焼(いがやき)は三重県伊賀市(旧阿山町)にて焼かれている陶器及び炻器。中世から始まったといわれる日本有数の古陶で、日本六古窯に数えられる。
概要
始まった頃は水瓶や種壺、擂り鉢などの日用雑器が焼かれていたが、陶土産地が山一つ隔てた信楽と同じだったため、信楽焼とほとんど区別がつかなかった。だが桃山時代の天正年間後期に入ると、伊賀領主となった筒井定次が、阿山の槙山窯にて茶の湯に用いるための茶壺、茶入、花入、水指などを焼き始めた(筒井伊賀)。これらにはビードロ釉(ゆう)と呼ばれる緑色の自然釉が見られる。焼き締まった赤褐色の土肌に吹き出た無数の長石粒と折り重なり、質朴でありながら風流な焼き物となったのである。その後は小堀遠州によって「遠州伊賀」と呼ばれる伊賀焼が焼かれた。これは前者の「筒井伊賀」とは対照的に瀟洒な茶器である。その後は藤堂高次による「藤堂伊賀」も発生したが、これはすぐに衰退している。その後興廃を繰り返すが、江戸中期には京都や瀬戸の陶工を招き、施釉陶の技術がもたらされた。これらの時期を「再興伊賀」と呼ぶ。そして「再興伊賀」以降は茶陶はほとんど焼かれなくなる一方、土鍋や行平、土瓶などの日用食器が中心となっている。1982年11月には国から伝統的工芸品の指定を受けている。
代表作
耳付水差 銘破袋(五島美術館、重要文化財)古田織部の添状が付属
耳付花生 銘からたち(畠山記念館、重要文化財)
擂座花生 銘芙蓉(個人蔵、重要文化財)
擂座水差 銘破袋(個人蔵、重要文化財)"
●阿漕焼(あこぎやき)は三重県津市で焼かれる陶器。名の由来は地名の阿漕浦に因む。萬古焼の流れを汲み、200年余りの歴史がある。
歴史
"阿漕焼の元祖は、萬古焼の元祖、沼波弄山の弟子であった沼波瑞牙であるとされる。瑞牙は藤堂藩の招聘によって当時の安東村にて窯場を開き、萬古焼を焼き始めた。このため、当初は安東焼といわれた。その後、窯場は城下近くの馬場屋敷で焼かれるようになり、この頃から阿漕浦に因んで、阿漕焼と名乗るようになり、藩の御用窯として重宝、主に日用雑器が焼かれた。
その後中絶するが、豪商、倉田久八が藩の命を受けて再興させる。但し、久八は旦那芸としてあくまで趣味の範疇であった。その後、明治維新を迎えると藩の援助は一切打ち切られたため、富裕な商人らが共同で阿漕焼を支えていく。そのため、対立が生じ、古くからの窯場(船頭阿漕)は人材不足で廃窯、後発の窯場(土手阿漕)も放漫経営のため、廃窯してしまう。
それでも阿漕焼を惜しむ声が多く、明治34年には阿漕焼製陶会社を設立した。しかし、直後に日露戦争に直面したため、経済不況が直撃、工場を閉鎖させざるを得ない状況となった。その後も有力な実業家や職人が再興を図るも、機械化の影響もあって、少量生産の阿漕焼は興廃を繰り返すだけであった。
昭和になって津市長堀川美哉は萬古焼職人の福森円二を招き、阿漕焼を再び盛り返そうと図った。当初は厳しい経営が続いていたが、戦後になって日用雑器から付加価値の高い茶器に対象を転換し、漸く阿漕焼は再興を果たすことになる。"
特徴
器自体は萬古焼の流れを汲みながら、九谷焼のような絵付けを施すのが特徴。朱や緑、黄色、紫、紺青など艶やかな色彩を巧みに用いる。また、時代によって様々な形態が見られる。