沖縄 陶芸体験 漆喰シーサー作りしょっ
南部なちゅら店

滋賀県 陶芸体験,学習,教室,漆喰シーサー作り,沖縄観光しょっ!

全国には数百箇所にも上る教室があります。教室のスタイルもいろいろ
ご自分にあった教室が見つかると思います。

全国の体験陶芸、教室一覧

滋賀県 陶芸教室、体験

教室名 住所 電話番号
三郎窯 滋賀県彦根市宇尾町11番地 090-9288-8488

比良麓湖窯陶芸教室 滋賀県大津市北比良986-60 077-596-0300

(株)山上陶器 滋賀県甲賀市信楽町柞原169 0748-82-0770

松下陶芸教室 滋賀県草津市桜ケ丘1丁目7-9 077-563-1731

花しょうぶ通り街の駅寺小屋力石 滋賀県彦根市河原2丁目3-6 0749-27-2810  

陶房ROKU 滋賀県大津市下阪本6丁目37-11 077-579-3626  

陶志舎 滋賀県甲賀市信楽町長野150-3 0748-82-3855

陶芸リゾート嘉祥窯信楽山荘 滋賀県甲賀市信楽町牧15 0748-83-1236  

陶芸道場ろくろにチャレンジ 滋賀県甲賀市信楽町長野1245 0748-82-0611

陶芸工房ほっこくがま 滋賀県長浜市元浜町1230 0749-68-2680  

陶芸工房アメニティー 滋賀県草津市野路町912-4-101 077-561-9010  

宗陶苑総合案内 滋賀県甲賀市信楽町長野1423-13 0748-82-0316  

(株)信楽陶芸村国道店 滋賀県甲賀市信楽町牧1466 0748-83-0230  

(株)信楽陶芸村 滋賀県甲賀市信楽町長野1131 0748-82-0522  

(株)信楽陶苑たぬき村 滋賀県甲賀市信楽町牧1293-2 0748-83-0126

澤善陶芸教室 滋賀県甲賀市信楽町勅旨1424-1 0748-83-0215

唐橋焼窯元 滋賀県大津市唐橋町18-5 077-537-0543  

奥田順久 滋賀県甲賀市信楽町江田963-8 0748-82-1054  

(有)小川顕三陶房 滋賀県甲賀市信楽町長野755-1 0748-82-2216  

大小屋陶芸教室 滋賀県甲賀市信楽町勅旨2349 0748-83-2225  

淡海陶芸研究所 滋賀県草津市岡本町686 077-563-5934

生石木芸 滋賀県甲賀市信楽町勅旨1569 0748-83-1046  

MDS美術研究所絵画アトリエ 滋賀県大津市千石台1-5 077-521-0890

一志郎陶芸倶楽部 滋賀県彦根市本町1丁目6-22 0749-24-6711  

水茎焼陶芸の里 滋賀県近江八幡市中之庄町620 0748-33-1345

窯元うつわ・割烹食器店 滋賀県甲賀市信楽町勅旨2048-1 0748-83-1333

遊器陶舎 滋賀県甲賀市信楽町勅旨2344 0748-83-0570

しがらき顕三陶芸倶楽部 滋賀県甲賀市信楽町長野755-1 0748-82-2216

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●信楽焼
信楽焼(しがらきやき)は、滋賀県甲賀市信楽を中心に作られる伝統陶磁器、炻器で、日本六古窯のひとつに数えられる。一般には狸の置物が著名であるが、後述のように多様な発展を遂げている。
概要
信楽は、付近の丘陵から良質の陶土がでる土地柄である。長い歴史と文化に支えられ、伝統的な技術によって今日に伝えられて、日本六古窯のひとつに数えられている。
信楽特有の土味を発揮して、登窯、窖窯の焼成によって得られる温かみのある火色(緋色)の発色と自然釉によるビードロ釉と焦げの味わいに特色づけられ、土と炎が織りなす芸術として“わびさび”の趣を今に伝えている。
信楽の土は、耐火性に富み、可塑性とともに腰が強いといわれ、「大物づくり」に適し、かつ「小物づくり」においても細工しやすい粘性であり、多種多様のバラエティーに富んだ信楽焼が開発されている。
歴史
信楽は、奈良、山城などの畿内と東海地方とを結ぶ交通路でもあり、茶湯の中核として発展した京、奈良に近いことから、後に茶陶信楽焼が発展した大きな要因と考えられている。また、焼き物に良好な陶土が豊富にあり、陶工たちにとっても理想郷だったといえよう。
中世末期頃より窖窯によって壺、甕、擂鉢などの焼き物づくりが始められ、日本独自の陶磁器産地としての歴史が展開してきた。
素朴さのなかに、日本人の風情を表現したものとして、室町・桃山時代以降、茶道の隆盛とともに「茶陶信楽」として茶人をはじめとする文化人に親しまれ、珍重されてきたのもその所以ともいえる。
江戸時代には、商業の発達にともない、茶壺をはじめ、土鍋、徳利、水甕などの日常雑器が大量に生産され、明治時代には、新しく開発された「なまこ釉」を使った火鉢生産がはじまり、一躍全国の需要をまかなうほどに大きな成長を遂げた。その他、神仏器や酒器、茶器、灯火具などの小物陶器や壺、火鉢などの大物陶器が生産され、質量ともに大きな発展を遂げた。
昭和の時代に入り、1950年代後半から1970年代にかけては、高度経済成長により電気や石油暖房器具の開発・普及の中で、生活水準が向上するなど生活様式の変貌にともない、信楽焼も火鉢の需要が減退するなど一大転機に見舞われたが、伝統技術と職人の智恵が火鉢の技「なまこ釉」を取り入れた植木鉢を誕生させ、高級盆栽鉢や観葉鉢が生産の主力となり、高い評価を受けるに至った。その後、水甕、種壺、茶壺、茶器、徳利、火鉢、植木鉢、花瓶など大物から小物に至るまで信楽焼独特の「わび」「さび」を残し、今日に至っている。
現在では、植木鉢、食器といった日用陶器や建築用タイル、陶板、タヌキ、フクロウ、傘立て、花器、茶器、庭園陶器などが生産され、生活に根ざした陶器が造られ、需要に対応した技術開発が行われている。
信楽焼は、1976年(昭和51年)に国から伝統的工芸品の指定を受け、今日に至っている。
特徴
信楽焼の特徴は、土中の鉄分が赤く発色する火色や、窯のなかで炎の勢いにより器物に灰のふりかかる、灰かぶりの現象による自然降灰釉(ビードロ釉)の付着、また、薪の灰に埋まり黒褐色になる「焦げ」も含めた、炎が生み出す独特の焼き上がりにあるといわれている。
古信楽にはしばしば見られる特徴的な窯変の現象もある。器面の素地が荒く、細かな石粒(石英粒や長石粒、珪砂)などが多く含まれていることも特徴の一つといえよう。
信楽焼の焼かれた甲賀地域(滋賀県最南部)は、伊賀地域(三重県)と隣接し、そのため信楽焼と伊賀焼は雰囲気がよく似ているといわれるが、これは同じ古琵琶湖層の粘土層を利用しているためで、「古信楽」と呼ばれる信楽特有の土味を発揮して、素朴であたたかい情感は、この古琵琶湖層の粘土にあるといえよう。
灰釉の他にも、植木鉢や火鉢に見られる「なまこ釉」など、絵付の商品が少ないためか釉薬の種類が多いことや、大物づくりの成型、乾燥、焼成技術なども信楽焼の代表的な特徴である。
また、作家によって、焼き〆や粉引など実にバラエティーに富んだ焼き物を楽しめる事も信楽焼の特徴に挙げられる。
従って、現代の信楽焼は様々な技法が用いられる個性あふれる器であると言えるだろう。
技法
陶土は、水簸(すいひ)せず、製造すること。
成形は、轆轤(ろくろ)成形、押型成形または手ひねり成形による。
素地の模様づけをする場合には、「松皮」、「虫喰(く)い手」、「布目」、「印花」、「線彫り」、「櫛描」、「トチリ」、「掻き落とし」、または「化粧掛け」によるものである。
絵付は、手描きによる下絵付。この場合、顔料は鬼板または呉須を使用。
釉(くすり)掛けをする場合は、「重ね掛け」、「流し掛け」、「ろう抜き」、「イッチン」、「片身掛け」、「吹き掛け」、「はけ掛け」、または「はけ目」による。
素地の模様付け、絵付および釉掛けをしない場合は、登窯または穴窯による自然釉または火色を現出させる。

●湖南焼
湖南焼(こなんやき)は1851年(嘉永4年)-1854年(嘉永7年)の間に、滋賀県大津市長等山下、札之辻、または園城寺下鹿関町地域で作られた陶磁器である。落款印には「永樂」、「河濱支流」、「三井御濱」の押捺を持ち、永楽保全が最後に築いた窯として近世陶磁史に名を残す。現在は山田青月により再興され窯名が保存されている。
歴史
1851年(嘉永4年)に円満院門跡覚淳法親王の支援により、永樂保全が開窯する。色々な階層の人々に接して「河濱焼」、「三井御濱焼」、「長等山焼」などを試みるが、1854年(嘉永7年)保全の死去により廃れる。伝来品は数少ないが保全最晩年の作として名品が多く高い評価を得ている。
又、窯跡は未だ不明のままである。地域住宅の変貌および京都に通じる疏水路工事による地相変化の為、現在では窯跡の発見は不可能と云う説が有力である。
特徴
伝来品は茶道具(茶道)、煎茶道具(煎茶道)、雑器など様々な物が現在伝世している。又、短期間で住居を移転し、そのつど作風も変化している。主な作風として祥瑞、古染付、赤絵、金襴手、鉄絵陶器が多い、ただ特筆すべきは金彩の作品が特に多い事である。豊富に金を使う事によって何を意図したか不明であるが、近世最後の名工としての自負が感じられる。
また、滋賀県立陶芸の森に所蔵されている「金襴手龍文馬上杯」などは同時代の焼物には類を見ない形で、当時西洋より輸入されたガラス器の影響を受けたものと考えられる。
晩年、息子和全と不仲になり京都を離れ地方を流転するが、強い個性ゆえ他と交えることが出来なかったのであろう。湖南焼の特徴と云えば保全の個性的な創造力と云っても過言ではない、それ故にこそ現在まで作品の力が衰えず魅力を保っている。同時代の名工、青木木米、高橋道八に比べ不遇な晩年であったと語られるが、作品より奏でられる高い品格がその説を砕く。晩年まで貫いた創作力の強さこそが真の保全の姿であったと考えられる。紀州徳川家の偕楽園焼、摂州高槻城主、永井直輝による高槻焼をはじめ各地の大名や門跡寺院など、各地の御庭窯に招かれて指導にあたったことは陶技の伝播を考える上で陶磁史に不動の功績を残している。

●膳所焼
膳所焼(ぜぜやき)は、滋賀県大津市膳所にて焼かれる陶器。茶陶として名高く、遠州七窯の一つに数えられる。黒味を帯びた鉄釉が特色で、素朴でありながら繊細な意匠は遠州が掲げた「きれいさび」の精神が息づいている。
歴史
元和7年(1621年)膳所藩主となった菅沼定芳が、御用窯として始めたものを膳所焼(御庭焼)と言う。また、膳所藩領国内で安土桃山時代から江戸時代初期に焼かれた大江焼(瀬田大江(現大津市瀬田)の陶器、1620年代には築窯されていたとされる。)・勢多焼・国分焼(石山)の3古窯と、膳所焼復興を目指した梅林焼・雀ケ谷焼・瀬田焼の総称としても用いられている。
菅沼定芳は、膳所藩主となった後の寛永6年(1629年)、膳所相模川の左岸に御用窯を築いた。定芳は本阿弥光悦・小堀遠州・松花堂昭乗との交友に影響を受け茶器を焼いたと言われている。
菅沼定芳移封後、寛永11年(1634年)新たに石川忠総が膳所藩主となった。忠総の実父大久保忠隣は、小堀遠州の師であった古田織部門下の大名茶人であり、忠総自身も小堀遠州と親交が深かったことから遠州の指導を受け茶器焼き物に力を注いだ。膳所焼は遠州七窯の一つとして評判を上げ、茶入や水指などは諸大名らの贈答品として重宝された。しかし、膳所焼の隆盛は忠総治世時に留まり、慶安3年12月(1651年2月)忠総が死去し、慶安4年4月(1651年6月)後継の石川憲之が伊勢亀山藩に移封すると、膳所焼は徐々に衰退していった。
膳所焼再興
梅林焼
天明年間(1781年-1789年)に小田原屋伊兵衛が梅林焼という窯を興したが、古来膳所焼は「黒味をおびた鉄釉の美しさ」を特色としたのに対し、梅林焼は「唐三彩風の緑や黄色など鮮やかな発色の釉薬」を特色とし、江戸初期の膳所焼とは懸け離れたものであった。
雀ケ谷焼
膳所城下篠津神社前紺屋町の商人井上幾右衛門が文政年間(1818年-1830年)、膳所焼再興のため京都から住宅まで建て陶工を招き、膳所茶臼山の東南麓の雀ヶ谷に窯を築いた。そのほとんどが土瓶・皿・鉢・徳利などの実用品であった。
瀬田焼
幕末から明治初期に、池田門平という陶工が瀬田の唐橋の東に窯を築き、楽焼風の茶碗を焼き始めたのが起源とされ、三代続いたが、大正時代には廃窯となった。窝跡は未確認で実態は不詳だが、長期間継続していたため、多くの製品が現存する。
膳所焼(再興)
膳所焼の廃絶を惜しんだ地元の岩崎健三が1919年(大正8年)、友人の画家山元春挙と組んで別邸に登り窯を築き、京都の陶工二代伊東陶山が技術的な指導を行い膳所焼の復興に生涯尽力した。健蔵の後、息子の岩崎新定に継承され、新生膳所焼は今日に至っている。膳所焼美術館にて作品を閲覧することができる。

●湖東焼
湖東焼(ことうやき)は、日本の陶芸の一つ、および、それによって生産される陶磁器の呼称である。「湖東」の名は琵琶湖東岸の地域名の一つである「湖東」に由来する。
江戸時代中期の彦根藩本領(現・彦根市域)で生産され始め、井伊掃部頭家の許で発展したが、幕府大老を勤めた藩主・井伊直弼が暗殺されると職人が離散して一気に衰退し、明治時代中期に途絶した。その後、1986年(昭和61年)に復興事業が立ち上げられている。
概要
文政12年10月(新暦1829年11月)、彦根城下石ヶ崎村(現彦根市古沢町)の呉服商・古着商絹屋半兵衛は、当時全国的に盛業を極めていた製陶業を彦根においても興すべく、有田より伊万里焼の職人を招き、彦根油屋町の古着商・島屋平助と彦根藩御蔵手代・西村宇兵衛を誘って共同で彦根城南(芹川沿い)の晒山(晒屋地区)に「絹屋窯」を開き、湖東焼の創始者となった。
晒山には何らかの問題があったらしく、窯の場所を佐和山山麓古沢村の餅木谷に移し、主に磁器の生産を行ったが、未経験による失敗も多く、ついには協力者であった島屋平助等が手を引き、半兵衛単独で経営にあたった。徐々に事業も軌道に乗っていったが、しばしば資金不足に陥り、彦根藩からの借銀によって事業を維持した。
有田式の丸窯を瀬戸風の古窯形式に改め、湖東焼独特の淡緑色を出す物生山石(むしやまいし、佐和山北端の物生山で採取される石)・敏満寺山(現犬上郡多賀町)の粘土を用いたことは半兵衛による成果であった。染付・錦手・金襴手などの華麗な手法を用いられた文房具・茶器・飲食器が生み出され、「沢山」「湖東」の銘を記し、近江国内・京・大阪へ売り出された。半兵衛が育てた湖東焼は、第14代藩主・井伊直亮治世下の天保13年(1842年)、藩直営となった。
湖東焼は直亮と次の第15代藩主・直弼の治世下で最盛期を迎えるが、幕府大老の職にあった直弼が江戸城桜田門外で暗殺された安政7年3月3日(1860年3月24日)を境に彦根藩内の空気も一変し、政情不安の煽りで職人のほとんどが離散してしまう。残った地元生まれの4名だけでは存続も叶わず、藩窯は2年後に閉鎖を余儀なくされた。それ以降は民窯として複数の窯が存続していたものの、それらも1895年(明治28年)までに全てが閉鎖され、湖東焼は途絶した。

●下田焼
●八田焼