沖縄 陶芸体験 漆喰シーサー作りしょっ
南部なちゅら店

新潟県 陶芸体験,学習,教室,漆喰シーサー作り,沖縄観光しょっ!

全国には数百箇所にも上る教室があります。教室のスタイルもいろいろ
ご自分にあった教室が見つかると思います。

全国の体験陶芸、教室一覧

新潟県 陶芸教室、体験

教室名   住所    電話番号
碌塊苑陶芸教室 新潟県新潟市西区五十嵐2の町7588-10 025-261-0056  
村木陶芸スタジオ 新潟県新潟市西蒲区角田浜405 0256-77-2465
美野里焼 新潟県長岡市古正寺1丁目1-1 0258-28-7518  
ふるさと会館悠夢窯 新潟県東蒲原郡阿賀町五十沢 0254-99-2898  
新潟陶芸クラブ 新潟県新潟市西区内野町1051 025-262-8001  
どん窯 新潟県南魚沼市六日町2053 025-772-8191  
陶工房セラ 新潟県新潟市東区粟山1丁目17-4 025-277-1964  
陶芸工房旭釜 新潟県南魚沼郡湯沢町大字土樽6379 025-787-0357
陶芸教室ドーム(土夢) 新潟県新潟市中央区東堀前通5番町408-1 025-225-1696
(有)陶具堂 新潟県新潟市東区紫竹4丁目21-45 025-241-1808  
陶久悠心窯 新潟県長岡市笹崎3丁目3-29 0258-39-6218  
造形工房夢塾 新潟県阿賀野市山口町1丁目7-1 0250-63-0598  
ササキ陶房 新潟県見附市新町3丁目7-51 0258-63-1072
工房まめのはな 新潟県長岡市福戸町2617 0258-27-1310  
工房木の花舎 新潟県新潟市西蒲区松山16-2 0256-73-0050
暮楽布土かなかな屋 新潟県長岡市城岡2丁目10-11 0258-39-5621  
蒲ケ沢焼やきもの体験工房大窯 新潟県新潟市秋葉区金津2732-2 0250-23-2225  
カワセ陶芸 新潟県三条市大字柳沢1886-78 0256-38-9385  
上川陶芸体験施設 新潟県東蒲原郡阿賀町広谷乙1845 0254-95-3525  
越州陶芸工房 新潟県長岡市朝日584-3 0258-92-6121
うつわや風花 新潟県三条市東裏館1丁目17-25 0256-36-7717
歩夢工房美夜之窯 新潟県阿賀野市小栗山650-1 0250-63-2451
葵総合企画 新潟県新潟市中央区白山浦2丁目646-52 025-265-5326  
南龍窯南山焼 新潟県南魚沼市上野307 025-783-3006
工房和夢焼 新潟県柏崎市大字南下2910 0257-28-0771

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●無名異焼
無名異焼(むみょういやき)は、新潟県佐渡市相川町で焼かれる陶器。
概要
無名異とは酸化鉄を含有する赤土で、止血のための漢方薬でもあった。また、佐渡金山採掘の際に出土したため、その副産物を陶土に利用して焼かれた。文政2年に伊藤甚平が無名異を使って楽焼を焼いたのが始まりで、安政4年に伊藤富太郎が本格化させた。後に初代三浦常山が脆かった従来品を強くするため、朱紫泥焼の手法を編み出し、今日に至る。高温で焼き締めるために非常に固く、叩くと金属音のような音を出すのが特徴。2003年に重要無形文化財の指定を受け、同時に5代伊藤赤水が重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されている。なお、無名異焼は佐渡以外にも、石見などで焼かれている。

●庵地焼
庵地焼(あんちやき)は新潟県阿賀野市(旧安田町)保田、通称庵地(あんち)地区で焼かれている陶器である。
 「庵地の黒」といわれるほど、黒色の釉薬に特徴がある。元々は江戸時代から続く“保田焼”(現在の「安田焼」とは異なる)が前身で、同地には昭和の初期、村山、旗野、田村、井上の諸窯があったが、旗野窯を除く各窯は第二次世界大戦を前後に絶えた。旗野窯は、1878年(明治11年)に村松焼(現五泉市)で修業した旗野直太郎が起こした窯で、甕、鉢、皿、碗、徳利、片口などの食器のほか、湯たんぽ、火鉢、植木鉢などの雑器を焼いた。旗野嘉山(嘉一)が継承し、3代目の旗野義山(義夫)が研鑽努力し民芸窯としての地歩を固めた。義山没後は実子の三姉妹が継いだ。
昭和初期には宮之原謙や佐々木象堂らが滞在して秀作を生み、その名が全国に響き渡った経歴を持つ。また、近年では2005年に津村節子が同窯をモデルに小説『土恋』を発表、話題をよんだ。

●村松焼
村松焼 (むらまつやき) 村松焼は天保12年(1841年)から明治25年(1892年)まで新潟県の村松藩の城下町村松(現、新潟県五泉市村松町)で焼かれた陶器。天保13年(1842年)から文久2年(1862)までの間、三回ほど藩営釜であった。製品はほとんど陶器であるが一部半磁器質も作られている。商品の主体は各種の日用品である。
歴史
村松燒は、当初は村松城南東の大口にあった海老屋三平の経営する民窯であった。天保12年(1841年)12月、この海老屋のもとにのちに村松藩窯の瀬戸方棟梁を長く勤めることになる陶工道川忠治がやってきた。忠治は文政1年(1818年)3月27日、出羽国道川村(秋田県由利本庄市岩城)に生まれ、12歳のとき、寺内村(現、秋田県秋田市寺内)に住む伯母婿で寺内焼の陶工桜田周八に弟子入りした。この寺内焼は、天明7年(1787年)に白岩焼の陶工であった宮崎善四郎がこの地に分かれて開窯したもで、おもに日用陶器を焼いた民窯である。忠治はここで九年間陶工としての修業を積んだ後、三年間諸国の窯を廻ってのち村松にきた。そこで忠治は阿部の姓を郷里の道川村になぞらえて道川に改めた。忠治が海老屋のもとで働き始めた1年後の天保13年(1842年)11月、この海老屋三平の経営する大口窯が「御手山」つまり藩窯となったが、早くも二年後の弘化1年(1844年)5月には山田屋清左衛門に払い下げとなり、代わって弘化2年(1845)7月に、近くの日枝神社裏手のムジナ沢に新たな藩窯が築かれた。このころ忠治は新たな技術習得の欲求が上ってたのか、弘化3年(1846年)10月暇を取り、相馬大堀(福島県双葉郡浪江町)の大堀焼窯元、半谷六郎左衛門に弟子入りし、2年間に渡り新しい陶芸技術の習得に努めた。忠治が村松に戻った時、ムジナ沢の藩窯は再び民間払い下げとなって海老屋三平の手に経営が移っていた。忠治は再び海老屋三平のもとで大堀焼で得た技術を駆使した新たな製品を作ったが、この頃が村松焼の全盛期であったと推定されている。そして、2年後の嘉永3年(1850)春には海老屋三平に替わって忠治らが窯を維持した。その後、嘉永5年(1852年)11月、本堂山北端の山際にある搗屋小路に三度藩窯が築かれ、忠治が三度棟梁を命ぜられる事となった。更に、安政2年(1855年)1月、忠治は藩主堀直央の御手回りに召し抱えられている。安政6年(1859年)3月には搗屋小路に瀬戸山役所が建設され、その年5月に隠居した藩主堀直央はたびたび役所に姿を見せ忠治と「やきもの」論議は交わしていた。その直央も万延1年(1860年)にはこの世を去り、更に文久2年(1862年)8月、藩窯はまたもや山田屋清左衛門に払い下げとなった。明治の初め頃、山田屋の下で村松燒は一時的に営業を拡大するが、それも長くは続かず、明治25年(1892)に窯を閉ざした。また忠治も明治8年(1875年)に死去した。